映画館でガチ観賞。アーティストたちを深く考え込ませた「沈黙-サイレンス-」

Base Ball Bearの小出祐介が部長となり、ミュージシャン仲間と映画を観てひたすら語り合うプライベート課外活動連載。今回は、遠藤周作の原作を巨匠マーティン・スコセッシが映画化に臨んだ話題作「沈黙-サイレンス-」へ。遠藤周作を愛する小出部長は感想を話すことに複雑な気持ちを抱いているようです……。

活動第32回[前編]「沈黙-サイレンス-
参加部員:小出祐介(Base Ball Bear)、世武裕子、オカモトレイジ(OKAMOTO’S)

日本語の原作から翻訳されていないニュアンスが結構あるような気がする

──連載「みんなの映画部」第32回です。今回は「沈黙-サイレンス-」。巨匠マーティン・スコセッシ監督が遠藤周作の名作小説を、大勢の日本人キャストを迎えて映画化した話題の一本。江戸時代の初期、長崎でのキリシタン(キリスト教徒)弾圧を描く作品です。160分を超える渾身の力作でしたが、まずは小出部長から恒例のひと言を。

小出 えっと……これはですね、難しいです。

レイジ 部長のひと言、“難しいです”(笑)。

小出 難しいです! 内容がというより、どう評価するかっていう点でね。すっごい端的な感想を言うと、体感的にはカリフォルニアロール食ったみたいな感じ。

──あ、そうなんだ(笑)。お話自体は原作にほぼ忠実ですが。「完全映画化」と言ってもいい。

小出 そう、物語的にはほぼ原作の順序通りですね。最初、宣教師のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)たちがポルトガルから長崎にやってくる船旅の過程はさすがにちょっと省略しているんだけど、以降は全然端折ってない。

「沈黙」っていう小説は遠藤周作の作家としてのメインテーマや核心がズバーンと入っている作品だと思うんですけど、まず日本の文学作品として素晴らしいので、それを海外で映画にするときの難しさというか……同じものなんだけど、日本語の原作から翻訳されていないニュアンスが結構あるような気がして。“外国の人はこう読んだんだなぁ”というフィルターがどうしても1枚挟まってしまった。

マーティン・スコセッシ監督が原作に惚れこんでいるのは間違いないと思うんですけどね。だからイイとかダメとかじゃなくて、カリフォルニアロールって感じ(笑)。

──美味しい……んだけども、みたいな?

小出 そうそう(笑)。美味しいんだけど、在り方がちょっと違うとかそんな感じかなぁ。作品の主題はキリスト教を軸足に“信仰とは何か”、もっと噛み砕くと“人は何を信じるのか?”、さらに噛み砕くと、“人間は感じられていることしか感じられない”っていうことかなと僕は原作を読んだときに思っていて。こういう部分をもっと感じたかったのかもしれないですよね。

レイジ なるほど。

小出 あとロドリゴたちの前に、彼らの師匠にあたる偉い神父が日本に布教活動にやってきて、でも行方がわからなくなっているわけですよ。

──物語のキーパーソンのひとり、フェレイラ師ですね。リーアム・ニーソンが演じているせいか、クワイ=ガン・ジン(「スター・ウォーズ」シリーズでニーソンが演じたジェダイ・マスターで、オビ=ワン・ケノービの師匠)みたいな(笑)。

小出 そうそう、クワイ=ガン・ジンね(笑)。

世武 そんな感じ(笑)。

小出 それ、本当に思ったんだよな。「スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス」みたいな質感が。

世武 ぽい、ぽい!

小出 ロドリゴはその師匠に教えを請うたので、まさか師匠が折れるわけがないと、それを確かめに行きたいって日本まで追いかけてくるんだけど。実は布教があまりにもうまくいっていなかったのを目の当たりにして、理想が崩されたロドリゴはものすごくとまどうんですね。しかも、信者たちがどんどん拷問にかけられる地獄の光景を見せられる。

そのなかで、原作だとロドリゴはずっと問いかけているんです。自身と、神様に、ですね。でも神様は……原作で彼が呼びかける「あの人」は何も導いてくれない。キリシタンたちがひどい目に遭っても強い信仰をもち続け、最後には殉教を遂げていくにも関わらず何も答えてくれない。ただただ、沈黙を続ける。

タイトルの「沈黙」というのは“神の沈黙”のことなんですけど、この問いかけが何度も反復されるんですよ。問いかけることで、勇気づけられたりもするけれど、現実には起きていない救済。その狭間で揺れ続けるんですね。そんなふうに彼の自問自答と共に時間が経過していく。そこが映像化するにあたってはきっと難しかっただろうなって。モノローグばかりじゃ映画にならないですしね。内面描写を深めながら、いかに場面を描くかっていう。

──日本でも一度映画化しているけど(1971年、篠田正浩監督作。遠藤周作自身が共同脚本に参加している)、難易度は相当高いんだろうなと。ちなみにスコセッシ監督は1988年に“人間としてのキリスト”を主題にした映画「最後の誘惑」を撮っていて、その流れで「沈黙」の原作を知ったらしいです。

小出 僕が事前に読んだものだと、スコセッシは「この原作は私の話だと思った」と語っていましたね。たぶん信心深い人なんだけど、同時に、信仰そのものの在り方についてはつねに自問自答してきたんでしょう。だからこそ「沈黙」を読んだときに共鳴したんだと思うんだよね。

あれはたぶんスコセッシ監督の解釈なんだろうね

レイジ 俺はもう、普通にめっちゃ疲れちゃいました(笑)。でも、長さはあまり感じなかったので、それは監督の力なのかなと思いました。淡々としているけどパワフルっていうか、展開はしっかり転がっていくじゃないですか。

世武 結構長いスパンの物語をまったく飽きさせずに見せる。その監督力はやっぱりすごい。

レイジ あと、エンドロールで「こんなに音楽が使われていたんだ!」と思いました。

小出 ほとんどかかっていない印象だったよね。

世武 でもクレジットには楽曲ごとにちゃんと作曲家も書いてあった。

レイジ どこで流れたんだ? っていう(笑)。そこは意外でした。

世武 ちなみに私はキリスト教系の学校だったんよね。

小出 あ、そうなの?

世武 そう。毎朝、賛美歌があってオルガンを弾いたり、みんなで歌っていたりして。もちろん聖書の授業もめっちゃあったんですけど、いつも思っていたのが、キリスト教徒の人たちというのはいったいなんのために、こんなに神が絶対なんだろうかって。

この映画だったら、神を信じている人たちがそれを理由にどんどん殺されていく。こんなに人が死んでまで、神は沈黙しているだけで。じゃあ、もしかしたら自分が創りだしているだけかもしれない何か、というものと、目の前でガンガン死んでいく人たちと、どっちが大事なの? っていう。

でもこれって、宗教の違いだけで戦争になっちゃうことにもつながる話でしょう。実際に「自分も殺されるかもしれないけど信仰のほうを取る」という人たちもいるわけで。だから立場が違ったら解釈もぜんぜん変わってきちゃうっていうか。映画の感想として「こうだよね~」みたいな軽い感じで語れない。

小出 難しいよね。

世武 勉強とか知恵、知識や経験とかいろいろないとくみ取れないところも多かった気がする。ただ、映画として単純に言えば、これは言っていいのかわからないけど、ロドリゴが踏み絵を踏んで“転ぶ”(キリスト教徒であることを否定して転向する)じゃないですか。そこからの彼の生き方のほうが個人的にはグッときた。何回か泣きそうになるポイントがあった。

小出 そこから先の部分って、原作にはあんまりないんですよ。

レイジ へー。

世武 ないの? どこからないの?

小出 ロドリゴが転んだあとの小説の書き方としては、本当にエピローグになって、あとは年表みたいな情報がババッと書いてあるだけ

世武 じゃあ、最後の最後のシーンは完全に映画だけってこと?

小出 うん。あれはたぶんスコセッシ監督の解釈なんだろうね。

世武 そして彼自身の希望と作品を世に放つ映画人としての意識もあったのかもしれないね

レイジ 皮肉な話ですけど、ロドリゴは転んでからが本物っぽくなっていった感じがありますよね、キリスト教徒として。

TEXT BY 森 直人(映画評論家/ライター)

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映画館を出て、今回の感想会はファミレスで。いつも天気が荒れる当連載ですが、今日は快晴……と思ったらいつも以上の激寒で、道中の3人たちはほぼ無口。

[後編](2月1日18時配信予定)に続く

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