新企画スタート記念!! 動画連載「松の間」のMCを務める松居大悟。マルチな肩書きを持つ彼の人物像に迫るべく、ルーツを探るインタビューをお届け。

松居大悟

8月9日より公開開始した動画連載企画「松の間」。松居大悟が気になる相手をゲストに招き、自身のルーツを語っていただく連載なのだが、この企画をスタートする前に、MCを務める彼のルーツを探るべく、インタビューを敢行した。映画監督、MV監督、劇作家、演出家、俳優、声優……さらにMCと、様々な肩書きを持ち、幅広いフィールドで活躍する彼のルーツはどこにあるのか? 「自らの劣等感を笑いに昇華」「イケてない青春時代を過ごした人間の無器用さを肯定」と称されてきた彼はどんな “劣等感”を抱え、どんな“青春時代”を送ってきたのか? 映像クリエイター・松居大悟と幼少時代から振り返ってみる。

INTERVIEW & TEXT BY 永堀アツオ
PHOTOGRAPHY BY 関信行(go relax E more)


 

小さい頃はぬいぐるみで遊ぶか、藤子・F・不二雄の本を読むか

──小さい頃はどんな子供でした?

ひとり遊びがすごく好きでしたね。幼稚園から小学校低学年の頃はぬいぐるみが好きで。30〜40体くらいいたと思うんですけど、全員に名前を付けて、毎日、街を作って遊んでいて。その人形たちで劇をやってましたね。だいたいは街に危機が訪れて、AとBが組んでやっつけに行くんだけど、Bが裏切って……そういうのをずっとひとりでやってました。

──1つ目の劇団ですよね、それ。

そうかもしれないですね(笑)。もともとは2個上のアニキと一緒にレゴブロックで大きな街を作ってストーリーを考えて遊ぶのが楽しかったんですよ。でも、アニキが飽きてやらなくなって。しばらくはひとりでレゴを続けてたんですけど、レゴは立つ位置を決めて、カチっとはめないといけないから、自由度が少ないなと思って。そこからぬいぐるみに移ったんですけど、とにかく人形たちが好きだったんですよね。もう、恋してたんだと思う(笑)。お盆や年末におばあちゃん家に行くときも、離れたくないから、トランクいっぱいに詰めて行ってましたから。

──ぬいぐるみたちから卒業したのは?

「ドラえもん」が好きだったので、「大長編ドラえもん」とか「パーマン」とか「21エモン」とか短編集とか、藤子・F・不二雄の本をひたすら買い揃えて。小さい頃はぬいぐるみで遊ぶか、藤子・F・不二雄の本を読むかっていう感じだったんですけど、小学校3年生くらいのときに、自由帳に落書きをするようになって。たぶん、無意識に少し大人になろうっていう想いがあったんだと思うんですけど、だんだん絵を描くほうが面白くなっていって。当時、“ザ・ドラえもんズ”がはやってたから、クラスの数少ない友達に割り振って、“ドラドラ7(セブン)”を結成して。オリジナルのテレカを作ってメンバーに配って、「これがドラドラ7の証だ!」みたいなことをやってたんですよ。

──2つ目の劇団ですよね。

あははは。そうですよね。でも、“ドラドラ7”自体のキャラの数が増えていって、あまり近くない友達にまで役割を与えたりしないといけなくなって。その頃には、わりと冷めてたんですけど、あれも劇団と言えば、劇団と言えるかもしれない……。

──ふふふ。資料によると、当時、舞台も観に行ってたみたいですね。

小学校からよく連れて行かれてました。阿佐ヶ谷スパイダースとか、三谷(幸喜)さんとかG2さんとか。おかあちゃんが一般的には知られてない、わりとマニアックな劇団の舞台や映画に連れてってくれて。ラーメンズも観に行ったなぁ。みなさん、テレビでやれないような面白いことを舞台でやってて、カルチャーショックを受けましたね。

ずっと部屋でマンガを書きながら、ハムスターとしゃべるっていう暮らし

──また、前回のインタビュー(松居大悟×モーモールルギャバン 映画「スイートプールサイド」座談会 参照)では「小学生の頃、コンプレックスしかなかった」と言ってました。

小学校のときが特にひどくて。いちばん背も低くて、デブで、くるくるパーマ(癖毛)で。運動もできないし、成績も悪い。ホントにもうヤバかったですね。ほくろを血が出るまでかきむしった話は前回したと思うんですけど、一時期、デブすぎて贅肉が憎くなってきて、これを切ってしまえば痩せるんじゃないかとハサミを構えたこともあって……。とにかく自分が人より劣ってるからなんとかしなきゃって、ずっと思ってましたね。

──見た目に対するコンプレックスが強かった?

勉強もですね。小4から塾に通ってたんですよ。学校が終わったら、駐車場に親の車があって。みんなが「サッカーしようぜ」ってグラウンドに駆けだしてく中、車に乗って、親が買っておいてくれたケンタッキーを食べながら塾に行って、夜9時まで勉強してたんです。しかも、その塾でハチマキを巻くことが義務付けられていて。ハチマキの色が、7色くらいあるんです。最初が白で、次が水色。成績によって違うんですけど、何かひとつノルマを乗り越えたら変わっていくんですね。金色がいちばん良くて、金色のヤツがきたら、道を空けなきゃいけないっていうヒエラルキー社会がそこにはあって。僕、白から水色にはなったんですけど、その先にずっといけなくて。水色を巻いてる自分がものすごく弱い存在で、キツかったですね。なんで勉強してるのかもわからないけど、勉強することが義務になってたというか。当時は授業を受けながら、修正液でずっとドームを作ってましたね。ピュって出して大きくして、固まったら触るっていうのをずっとしてた(笑)。中学受験がいちばんつらかったですね。

──でも、お受験は成功してるんですよね。

水色のままでいちばん難しいところに入ったんですよね。記念受験のつもりだったんですけど、なぜか受かって。だから、中学生のときは、期末テストは全部、下から3番目で。150人いて148番目。“ああ、下にふたりいた”と思ったら、そのふたりは登校拒否児で学校にそもそも来てなかったりして(笑)。母親から、つねに「下にふたりいるじゃない」って言われ続けたことが、唯一の救いではありましたけど……。matsui-01

──学校生活はどうでした?

えーと……中1のときに親が離婚したんですよね。それで兄貴と僕とおかあちゃんの3人で暮らしだしたんですけど、わりと多感な時期だったので、兄貴がグレちゃって。兄貴が悪い友達を家に連れてくるから、僕は怖くて部屋から出られなくなって……。物理的に学校に行けず、引きこもってしまって。ハムスターを飼ってたので、ずっと部屋でマンガを書きながら、ハムスターとしゃべるっていう暮らしをしてました(苦笑)。

──不登校はいつまで続いたんですか?

中3の終わりくらいですね。2個上のアニキが高2で寮に入ったので。その頃からおかあちゃんの仕事もなんとなく軌道に乗り出して。それまでの2年間はとにかくずっとマンガを書いてました。

ネタ自体はめちゃくちゃ面白いと思ってやってたので、悔しかった

──当時は漫画家になろうと思ってました?

そうですね。本当に漫画家になりたかった。その夢は高校3年間でも醒めることなく、授業中も教科書の下に白い紙を置いて、ネームを作ってたり。あと学校で何かやらなきゃと思って、生徒会の副会長になったんですよ。生徒会室の鍵を手に入れてからは、授業も出ずに生徒会室でマンガばかり書いてましたね。

──これは何度も話してるエピソードだと思いますが、実際に出版社に持ち込みにも行ってますよね。

シュール目のギャグ漫画を2個書き上げて。まず、福岡でスカウトキャラバンっていう編集者さんがくるイベントがあったんですね。1本目を書き上げて見せに行ったんですけど、そのときのことはあまり覚えてなくて……。「もっとちゃんと書いたほうがいいよ」って言われたのかな。それで、2本目を書き上げて、オープンキャンパスで東京の大学を見に行く日に、大学に行かないで出版社に行って。目の前でバンバン勢いよくめくられながら、「こういうのは芸人さんがテレビでやってるから、マンガでやる必要はないよね」って言われて。あの悔しさは忘れられないですね。帰りの飛行機で “もうマンガなんてやんねーよ”って思ってましたから。

──漫画家の夢を閉ざされた17歳の松居くんは……。

芸人をめざすんですよね。なんでだろう……マンガを描くことに疲れてたし、とにかく、ちやほやされたかったんですよね(笑)。男子校だったから周りに女性がいなかったし、何もしないでモテるわけないなと思ってて。それで、仲良かった変態グループのヤツらで2グループ結成して、「M-1グランプリ」に出たんです。第2回目(2002年)から6回目(2006年)まで毎年出場して。文化祭でも漫才をやったりしてたんですけど、「M-1」では全然受けなくて。ネタ自体はめちゃくちゃ面白いと思ってやってたので、悔しかったなぁ。で、僕の相方(谷口崇)……のちにアニメーターとして有名になるんですけど、そいつと高校卒業するときに“芸人になる”っていう夢を忘れずにいようって約束をして。芸人になるためには演技力をつけたほうがいいからって「お互いに演劇サークルに入ろう」っていうことになって。僕は慶応の、谷口は九大(九州大学)の演劇サークルに入って、メールでやりとりしながらネタを作ってましたね。

──2003年に慶応義塾大学に入学して、“創像工房 in front of.”に入団します。

最初はいろんなサークルに入ろうと思ってたんですけど、どのサークルも明るくてチャラくて。飲み会も女子がいっぱいいて、みんなでコールして飲むような感じで、仲良くできないな、こいつら嫌いだなって思って(笑)。でも、“創像工房 in front of.”のオリエン公演がむちゃくちゃ面白くて。すごいなと思って、そのあと飲み会に参加したら、さっきまでステージで面白かった人がちびちび静かに酒を飲んでて、“好きだな、この人たち”って思って、入ったんですよね。その、僕が面白いと思った公演の作・演出を、ヨーロッパ企画とは違う上田(航平)さんっていう方がやっていて。1つ上の先輩だったんですけど、2年ぐらいその人にずっと付いて、芝居の作り方を見てました。だから、僕には2人の師匠がいて、2人とも上田さんなんです。サークルの先輩の上田さんと、ヨーロッパ企画の上田(誠)さん。

「コメディを死ぬ気で作ってくれている若い演出家がいるのがうれしい」

──ヨーロッパ企画との出会いは?

サークルの先輩の上田さんがDVDを観せてくれて。それが、めちゃくちゃ面白かったんですよね。だから、僕が初めてやった作品「かけぬけない球児」(2006年5月)は、“ヨーロッパ企画みたいなことをやろう”っていうのが出発点だったんです。ヨーロッパ企画のDVDをみんなで観て、その台本を起こして、稽古して。集団ツッコミをひたすら練習してました。で、翌年の8月の“シアターグリーン学生芸術祭”に上田さんがトーク・ゲストでいらっしゃって。僕にとっては神みたいな人だったので、イベントに行って、上田さんと飲んで、いろいろ質問しまくって。そしたら上田さんが終電を逃して、僕の家に泊まりにくることになって。当時、僕、自己啓発っぽい言葉を書いた紙を部屋中に貼りまくってたんですね。足元に“下を見るな、上を見ろ”って貼ってあって、上を見ると“開き直れ、お前はお前”って貼ってあるとか(笑)。ほかにも、枕元には“目が覚めたら走り出せ”、“お前は面白い”って書いてあったり。その壁中に貼ってある紙を見た上田さんが「東京来て良かったな」ってボソッとつぶやいて。「演劇界ではコメディが浅いものとして見られてるけど、こうしてコメディを死ぬ気で作ってくれている若い演出家がいるのがうれしい」って言ってくれたのが、すごくうれしかったんですよね。結局、その“学生芸術祭”で最優秀賞をとって、その年度の最後に大阪公演ができて。その大阪公演を観てくれた上田さんに「手伝いに来てくれませんか?」って言われて、4年目に休学して、京都にお手伝いに行ったっていう感じですね。

──2008年の2〜3月に公演した「エイトビートニート」でサークルを卒業して、5〜6月にヨーロッパ企画の公演を手伝って、9月にゴジゲンを立ち上げるっていう流れですよね。

そうそう。その「エイトビート(ニート)」のときに、映画「クロサギ」のスタッフの方に「大学の演劇部のシーンがあるので、ちょっと稽古場を見せてくれませんか?」って言われて、見せて。その橘(康仁)さんという方に、「今年でサークルを卒業するんですけど、もの作りに関わりたいので、何かあったら連絡ください」ってお願いして。そこから、いろんな企画募集のことを教えてくれて、そのたびに何本も企画書を書いて。それで書いた「ふたつのスピカ」(2009年夏放送)がNHKの最終候補に残って。決定する前に「もう台本を書こう!」って言われて、死ぬ想いで全8話の台本を書きましたね。それで、その熱意が伝わって、企画が無事通ったんです。

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──この頃には“芸人になる”という想いはなくなってる?

2009年2〜3月の「たぶん犯人は父」のチラシの絵を書いてくれたのが谷口なんですけど、そのちょっと前に彼は「森の安藤」っていうアニメを書いて、ニコ動で爆発的にヒットしてたんですよね。それで “あ、あいつはアニメでいく感じだな”と思ったし、僕も演劇が忙しくなってきてあんまり会えなくなってて。“俺もなんとかしなきゃ。演劇頑張んないとな”って言いつつ、「何かないですか?」って聞いてた頃は、“自分にはいったい何ができるんだろう”って矛盾だらけでした。演劇で飯が食えるわけないと思ってたし。

──演劇が楽しいからやるという感じではなかった?

焦りのほうが大きかったですね。漫画家もダメで、芸人もダメで、仕方なく演劇をやってる感じだったと思う。大学には結局7年間在籍してたんですけど、演劇しかやってなかったので、サークルを卒業して何をやる? ってなったときに、もう演劇をやるしかないなって思って。だから、やってはいたけど、演劇でどうにかなるとは思ってなかったので、外への意識が強かったんだと思いますね。

 

インディーズ・バンドを聴きだした。音楽の力を借りたいって

──それでも演劇を続けていくわけですが、どこかターニング・ポイントとなった作品はありますか?

「たぶん犯人は父」のあとからですかね。2009年5月に「チェリーボーイ・ゴッドガール」という舞台をやったんですけど、理工学部の童貞たちの話で、“童貞を卒業するくらいなら死んだほうがマシだ”っていうテーマでやってて。このときに、童貞だっていうことを売りにして、自分にしかやれないことをやれたっていう実感があったんです。しかも、お客さんも楽しんでくれて。当時のこの舞台のチラシと、映画「スイートプールサイド」のチラシの写真が似てるってよく言われるんですけど、たしかにそうかもなって思って。自分にとっては原点になってるんだと思います。その前まではずっとヨーロッパ企画みたいな作品ばかりやってたんですよね。なんとかしたいなとは思ってたんですけど、「チェリーボーイ・ゴッドガール」で、やっと、自分の中からものを作れた気がしたんですよね。

──その後は、ゴジゲンは着々と動員を伸ばしていきますよね。

2009年、2010年はずっと劇団ですね。演劇をしつつ、ドラマの台本をちょっと書かせてもらったりして。ここらへんから、インディーズ・バンドを聴きだしたんですよ。音楽の力を借りたいっていうことで、“この芝居はこのバンド”って決めて、会場のSEに流すようになって。2011年2月に上演した「神社の奥のモンチャン」が“クリープハイプ”で。たまたま観に来ていた尾崎(世界観/クリープハイプ)の友達が、そのことを尾崎に言ってくれて、尾崎本人が次の公演「極めてやわらかい道」を観に来てくれて。

──偶然なのか、奇しくもゴジゲンが活動を休止する作品なんですよね。

そうですね。劇団の動員も増えてきたときだったんですけど……。劇団が大きくなるにつれて、続けるためにやらなきゃって感じになってたんですよ。自分がやりたいことをやるために作った劇団なのに、順序がおかしくなってるなと思ったんです。と同時に、最初からずっと一緒にやってた目次(立樹)が役者を辞めて、島根に帰るって言い出したので、こいつとやらないとやる意味もないなと思って、一回、活動を休止して、やりたくなったらまたやろうって思ったんですよね。

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──そのタイミングで尾崎くんと出会って。新しい物語が始まった感がありますね。

初めて会ったときに、尾崎は「来年の4月にメジャー・デビューするんです」って言って、僕も「来年の2月に『アフロ田中』で商業映画デビューするんです」っていう話をして。2011年の年末は、あいつと飲みながら「何かやりたいね。やろうよ」っていう話をずっとしてましたね。それまで、あまり同世代でそういう話をしたことがなかったから。こんなに話が弾むヤツがいるんだっていうくらい、あいつのやりたいこともわかれば、自分のやりたいことも伝わるのが気持ちよくて。で、実際に一緒にやってみようっていうことで、2012年の1月に「オレンジ」と「イノチミジカシコイセヨオトメ」を撮ったんですね。そこで、自分がやりたいなと思ったことを積極的に取り入れてもらえて、ちゃんと反応もあったことがうれしかったし、カメラマンとかスタッフチームも、初めて自分と歳が近い人で組んだので、そのチームでものを作るのが楽しくて。2012年はぶっちゃけ、ミュージック・ビデオしか撮ってないって言っていいくらい、クリープづくしでしたね。

表面上じゃない伝え方っていうのは、どの作品でも共通して考えている

──漫画家、芸人、演出家、脚本家、俳優、映画監督ときて、MV監督としての知名度も上がって……。松居さんの肩書きは何としたらいいんでしょう?

決めてないし、決めないようにしてます。決めたほうが周りも楽なんだと思うんですけど、どれかひとつに決めてる人の作品ってそういうふうになるなって思ってて。演劇寄りの演劇とか、映画寄りの映画とか。PV寄りのPVでは、なんかつまんない気がするんですよ。せっかくいろんなことをやれる状況にいるなら、できるだけ全方位なものでありたいし、そのほうが僕の場合は作品が豊かになっていく気がします。なので、肩書きが決められないぐらいフワフワし続けたいなと。

──いろいろな活動をする中で、ご自身のもの作りの核となっているのはなんだと思います?

うーん……やっぱ“不器用さ”ですかね……? なんて言うのか……うれしいときに、うれしいって言わないくらいのほうが本当にうれしいんだろうなって思ったり、優しいから「大丈夫?」って聞くんじゃなくて、ほんとに優しい人はなんて言うんだろうとか。そういう気持ちをいかに表現するか。表面上じゃない伝え方っていうのは、どの作品でも共通して考えている気がします。matsui-04

──さて、さらにMCという肩書きも増えるわけですが、「松の間」をどんな番組にしていきたいって思ってますか?

売り込まれる番組にしたいです!

──どういうことですか!?

アーティストのみなさんから、「『松の間』に出してくださいよ」って売り込まれる番組にしたい(笑)。結局、人にかまってもらいたいんですよね。ないものにされるのがいちばんきついから、売れたいんです。あと舞台も映像もやっぱり「脚本書いて」とか「〆切ですよ」とか「面白かったです」とか……いろいろ言ってもらえるのが心地よくてやってるから、やめられない状態になってるというか。はい、なので、こういう斬新な話をもらえたことがうれしくて(笑)。この「松の間」で自分の気になる人と話をしながら、その人のルーツを通して、新しいものを感じて、自分のルーツが明確になればいいなと思います。

 

PROFILE

matsui-051985年生まれ、福岡県出身。劇団ゴジゲン主宰。劇作家、演出家、映画&ミュージック・ビデオ監督、俳優として多方面で活躍。2009年にNHK「ふたつのスピカ」で同局最年少ドラマ脚本家デビュー。監督・脚本を手がけた自主映画「ちょうどいい幸せ」が沖縄映像祭2010グランプリを受賞。2012年に、商業映画「アフロ田中」で監督デビュー。その後の映画作品には、「男子高校生の日常」「自分の事ばかりで情けなくなるよ」等がある。また、クリープハイプのメジャー・デビュー以降のMV、大森靖子のMVを手がけるほか、コラム連載や、ひかりTV「Go!Go!家電男子」に声優出演。最新作は映画「スイートプールサイド」。

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